
稲盛和夫さんの「京セラフィロソフィ」を一昨年、手にする機会がありました。「人間として何が正しいのか」を自分自身に問い、真摯に仕事や経営にあたり、その生き方、生き様が書かれていました。表紙が擦り切れるほど読み込んだ後、「志学フィロソフィ」を書くことを決意しました。
私も塾屋としての半生を振り返り、様々な問題に直面し、悩み、考えたことを残しておこうと考えるようになりました。
今から40数年、海外駐在から帰国した私は松川私塾に向かっていました。松川さんは大学、サークルの先輩でした。大学1年の時、マックスウェーバーを一緒に読もうとサークル内の自主ゼミに誘っていただいたのがきっかけでお話をするようになりました。当時、ドイツ留学から帰国され大学5年生だった先輩とは読書量や学力差は比較になりませんでした。松川先生は「大事だと思うところに、線を引いてきて発表し合おう」と言われました。いざ読書会となると先輩が引いたところとは全く違うところに線を引いていた私に対して「そういった考えもあるね」と相手を否定せずに話を聞いていただき、大学1年の私は恐縮するとともに、学ぶ姿を教えていただきました。先輩は海外勤務が決まった私に送別会を開いてくれました。そして「しゃもじ」をプレゼントしてくれました。そしてロンドン勤務の私のもとにカセットテープに日本の流行っている歌謡曲をバックに声のメッセージを度々送ってきていただきました。そして「何かあったら相談に乗るから」という言葉を添えてありました。そして会社をやめるかどうか悩んでいた時、「田端で塾をやっているから良かったらおいで」というお話を頂いたのです。
そうして帰国した私は田端で塾を探しましたが看板は見当たりませんでした。教えられた住所の周りをウロウロしていると木造モルタルのアパートの窓が開き、「阿部くん、ここだ」と手を振る姿がありました。アパートの六畳の一室、確かに半紙に「松川私塾」と書かれて貼られていました。塾をやっている感じではありませんでした。話を聞くと、近所のお子さんを数名、司法試験の勉強の合間に教えているという程度でした。「まさか、本当にくるとは思わなかった」そこから稲垣ビル4階の一室を借りて、松川先輩、後輩の藤光くん、そして私の三人で塾がスタートしました。
塾の経験のない私は、松川先生の紹介でいくつかの塾で授業を見させていただき、授業をさせていただきました。田端ではいくつもの塾を行った挙げ句に来る生徒、問題がある生徒が多く私はよく叱りつけていました。勉強をするどころか、メガホンを持ってきて贔屓球団の歌を歌う生徒、それを煽り授業妨害をする生徒、そして多くの生徒にやめてもらい、やめていきました。今、思うと、自分の力不足のなにものでもありません。そうして一年目の年末、いよいよ行き詰まりを感じた私は、金庫にあった残り少ない現金をすべて図書券に替えました。そしてひとりひとりに「あリがとう」と言って図書券を配布しました。そしてこれ以上の継続は難しいことを告げようとした時、「年明けはいつからやるのですか」と一人の生徒が言ったのです。「私のような人間でも必要とされているんだ」と思うと涙が出そうになりました。そうして継続を決意したのです。
そんな私達を応援していただいたのは保護者様でお風呂屋さんの岡島さん、お寿司屋さんの松崎さんでした。皆さんが仕事を終えた後、私と松川さんを食事に誘っていただきました。そして多くの生徒も紹介していただき、なんとか食いつないだのです。
しかし、三人で食っていくことは難しく、松川先生は大学院復帰後、予備校で働かれるようになりました。藤光くんは裁判所に勤務し、私だけが塾に残ることになりました。後に松川先生は青山学院大学法学部教授になられましたが一昨年、病死されました。藤光くんは裁判所勤務を終え、故郷に帰るという葉書を数年前に頂いたきりになっています。
あれから四十年以上の最月が流れました。私は文化系の人間です。理系と違って文系は何かを作り出すのはできませんが、自分学んだことを後に伝える使命があるということを、大塚久雄先生の本の中に書かれていたことを思い出したのです。
そう思い立って志学ゼミの目指す所、理念を書き残すことにしたのです。志学ゼミはこれまで多くの保護者様、OBに支えられ、今ではOBの子供さんも通ってきていただいています。みなさまのお陰で成り立ってきたようなものです。今は、社員が現場を引き受けてくれています。志学フィロソフィを書くにあたり「満足したら伸びは止まる」という言葉が浮かんできました。襟を正し、現場に向かい、その生き方、生き様を問う塾としても存在していきたいと考えています。
12月完成予定です。